自分を客観視し、論理的な行動をとれない人々
僕は、愛すべき友人Tに君はサイコパスだよと言われ、自分がサイコパスであることを自覚した。
そしてサイコパスを自覚してから意識的にやってきたことは、社会性を獲得することである。
サイコパスの人は無駄に論理的な思考をする傾向にあるらしく、僕も例にたがわずそうである。その結果、社会性を欠き、社会から排斥されるというのもまたサイコパスの常である。そうならないために、「社会性」を磨くことにしたのだ。
無駄に論理的というのはどういうことかというと、例えば、車が来ていないから赤信号でも渡っていいとか、バイトのマニュアルが非効率だから、自分なりにもっと効率的な方法でやろうとか、そういうことである。
要するに、もともとあるルールに対して懐疑的な傾向にあり、そのルールを破ることが多いのがサイコパスなのである。
それに則っていえば、僕は現在施行されている法律一般に対して非常に懐疑的なのであるが、その話はまた別の機会にすることとする。
しかし、サイコパスのそのような性質を発揮することは、排斥されることにつながる。
なぜならば、人はルールを守ることで共同体意識(幻想)を維持していて、それを外れることが社会から外れることと直結するからである。
であるから、僕は社会の慣例を深く理解し、その論理的で素晴らしい部分について一ミリもずれることなく従うことにしたのである。
この社会の美しいルールを2つ紹介しよう。
①電車の乗降車は、降りる人が先、乗る人があと。
②道の真ん中は通行者が滞りなく歩行するためのものであり、立ち止まる場合は端に寄る
この単純で美しい社会のルールを、どうして守れない人がいるのだろう!!!
電車の乗降時に、先に乗り込んでくるやつを見るとはらわたが煮えくり返るような心地がする。
駅の改札の目の前で立ち止まって話をしたり、荷物をひっくり返したりしているやつを目にすると蹴り殺したくなる。
ついでに、映画の上映中にスマホを見るやつ、死んでくれ!!!
これは哲学云々の話ではなく、単なる論理である。
先に乗り込めば、スムーズな乗降の妨げとなる。
改札の前で立ち止まれば、後ろの人がつっかえる。
真っ暗な映画館でスマホをつければ否応なしに集中が奪われる。
このようなことがわからん人間とどう折り合いをつければいいのだろう。
この前、サークルの仲間と大阪旅行に行ったのだが、道の真ん中で立ち止まるし、乗換の時間がないと言っているのにチャージするのを忘れて改札を通れないし、静かな飛行機の中でバカみたいな音量で話すし、、、
こういう時、旅行の和やかな雰囲気を壊さないために僕は黙っている。
黙りこくるしかないんだろうか。