自信がつくと手が付けられなくなるもの
21年近く生きてきて、最近ようやく自分にすこしずつ自信が持てるようになってきたと感じます。
そうして、自信がつくにしたがって、僕の心は一瞬晴れやかな気分になるものの、薄暗い不安がそこにまたついても来るのです。
自信を持つようになると、手が付けられなくなるのは、他者に対する怒り、苛立ちのようなものです。
自信が募るにしたがって、僕の心はまた、軛を断った猛獣のように、怒りの方へ駆り立てられていくのです。
自信がつくと人に怒れるようになりますから、自然と自分の攻撃性が増していきます。
そのために、不安になります。
かつての僕は、人に怒るなどとんでもないような、気弱な人間でしたから、自分が人に怒れるようになると、そういう自分を恐ろしく、また脆い不安定なもののように感じてしまうのです。
さて、この間僕が怒ったのは、時間を守らない人です。
「時間は守らなきゃだめだ」と言いました。
僕は、彼らに、そこからここまで来るまでにかかる正確な時間、ここに来なければならない時間、その時間までにここに来るためにそこを発たなければならない時間を伝えました。
まず、ここまでするのがどれだけ丁寧であるかに着目してください。
本来ならば、ここに来なければならない時間だけ教えればあとは彼らの裁量に任されるはずです。
しかし、ここまでしたのにも関わらず、彼らは時間を遅れてやってきました。
なぜだ。
僕の頭の中は苛立ちと疑問でいっぱいです。
なぜ彼らは時間を守ることさえできないのだろう。
「時間を守る」ということは、社会が円滑に動くための必要最低限の義務です。
すなわち、その言葉が意味するところのものは、自分の欲を抑え、社会を優先するということです。
彼らは温泉に浸かっていました。さぞ気持ちのいいことだったでしょう。
それを邪魔しないために、僕は懇切丁寧に、時間について彼らに多くを伝えました。
それなのに、時間に遅れてくるというのは、自らが欲にまみれ、自分の欲を抑えることもままならず、社会に悪影響を与えることしかできない無能な人間であることを露呈することに他ならないのではないでしょうか。
僕は、彼らを待っている間、そんなことをずっと考えていました。
だから、彼らが笑顔で「ごめーん」と言いながらこちらへ来た時に、その顔を見た瞬間に、怒りで頭が沸騰しそうになったのは言うまでもありません。
かつての僕ならばきっと「別にいいよ」と言ったでしょう。
なぜならば自分の判断に自信が持てていないから。
でも、自分に自信をもった僕はどうでしょう。
彼らを怒りました。
これは、彼らを教育しようという魂胆の𠮟責ではまったくありません。
ただの怒りなのです。
僕は、最近、怒りを感じるようになりました。
自信をつけることは、このような副作用を生むのです。
自分を客観視し、論理的な行動をとれない人々
僕は、愛すべき友人Tに君はサイコパスだよと言われ、自分がサイコパスであることを自覚した。
そしてサイコパスを自覚してから意識的にやってきたことは、社会性を獲得することである。
サイコパスの人は無駄に論理的な思考をする傾向にあるらしく、僕も例にたがわずそうである。その結果、社会性を欠き、社会から排斥されるというのもまたサイコパスの常である。そうならないために、「社会性」を磨くことにしたのだ。
無駄に論理的というのはどういうことかというと、例えば、車が来ていないから赤信号でも渡っていいとか、バイトのマニュアルが非効率だから、自分なりにもっと効率的な方法でやろうとか、そういうことである。
要するに、もともとあるルールに対して懐疑的な傾向にあり、そのルールを破ることが多いのがサイコパスなのである。
それに則っていえば、僕は現在施行されている法律一般に対して非常に懐疑的なのであるが、その話はまた別の機会にすることとする。
しかし、サイコパスのそのような性質を発揮することは、排斥されることにつながる。
なぜならば、人はルールを守ることで共同体意識(幻想)を維持していて、それを外れることが社会から外れることと直結するからである。
であるから、僕は社会の慣例を深く理解し、その論理的で素晴らしい部分について一ミリもずれることなく従うことにしたのである。
この社会の美しいルールを2つ紹介しよう。
①電車の乗降車は、降りる人が先、乗る人があと。
②道の真ん中は通行者が滞りなく歩行するためのものであり、立ち止まる場合は端に寄る
この単純で美しい社会のルールを、どうして守れない人がいるのだろう!!!
電車の乗降時に、先に乗り込んでくるやつを見るとはらわたが煮えくり返るような心地がする。
駅の改札の目の前で立ち止まって話をしたり、荷物をひっくり返したりしているやつを目にすると蹴り殺したくなる。
ついでに、映画の上映中にスマホを見るやつ、死んでくれ!!!
これは哲学云々の話ではなく、単なる論理である。
先に乗り込めば、スムーズな乗降の妨げとなる。
改札の前で立ち止まれば、後ろの人がつっかえる。
真っ暗な映画館でスマホをつければ否応なしに集中が奪われる。
このようなことがわからん人間とどう折り合いをつければいいのだろう。
この前、サークルの仲間と大阪旅行に行ったのだが、道の真ん中で立ち止まるし、乗換の時間がないと言っているのにチャージするのを忘れて改札を通れないし、静かな飛行機の中でバカみたいな音量で話すし、、、
こういう時、旅行の和やかな雰囲気を壊さないために僕は黙っている。
黙りこくるしかないんだろうか。
上の境界知能
自分は頭がいいのか頭が悪いのかよく考えている。
もちろん、社会的に見たら頭はいい方だ。IQでいうところの上位5%には入っている。
でも、だからといって頭がいいわけではない。というか、客観的な頭のよさと主観的な頭のよさは全く別の話なのである。当たり前のことだが。
そういう当たり前のことがわかっていない人からは、「君は頭が良くていいね」と言われる。
この発言には問題点が二つあって、一つは今言った客観的・主観的な頭のよさの齟齬。そして二つ目は、頭がいいからといっていいことは別にないということ。
「いい」というのは非じょーーーーーーーーーうに抽象的な言葉であるから、「いい」のエキスを抽出してみると「幸せ」に還元できるのではないだろうか。
そして、「幸せ」というのは前の記事でも書いたように、相対的に気分が向上するときに感じるものであるから、一瞬的なものであり、「頭がいい」という恒久的な原因と「幸せ」という一時的な結果が結びつくわけがない。
もちろん、幸せを測る基礎となるところの「気分」は、だいたい一定しているから、気分と頭のいいことを相関させることは可能であろう。
(「気分」は、前回書いたところの、飛行機が常に飛んでいる高度のことである。生まれながらに高い人もいれば、僕のように、ずっと低空飛行を続けている人もいる)
では、頭がいいと気分がいいかというと、そうではない。むしろ逆である。
頭がいいほど気分は悪い。なぜなら、頭がよければよいほど、見える物事が多くなり、その分考えることも増え、不安要素も増えるからである。
「人生について考えること = 不安になること」と考えてもらって差し支えないであろう。
頭がいい人は、悪い人より人生について考えることが多く、不安になることが多い。だから気分がいいわけでなく、むしろ気分は悪化するばかりなのである。
だいぶ単純化してお話したつもりだが、おわかりいただけただろうか。
バカはカシコをうらやむが、カシコはバカをうらやむのである。悲しい話。
だいぶ話が脱線したが、僕は客観的に頭がいいけれど、主観的には自分を頭がいいと思っていない、という話だった。
これがなぜか、今まであまりはっきりしていなかった。
せいぜい、頭がいい組織に所属しているから、自分の知能が低く感じられるのだろうとくらいにしか思っていなかったのである。
しかし、今日偶然思いついたのは、僕が、頭がいい人達の中での「境界知能」に属しているのではないかということである。
「境界知能」というのはご存じの通り、知的障害には該当しないが、一般的な知能よりも低いところの知能のことであり、最近注目されている。
僕の場合、早稲田・慶応レベルよりは上の知能を持っているが、東大よりは下の知能を持っているという意味で、境界知能にあたると思う。
よく思えば、早稲田の人たちとは話が合わないし、だからといって東大のえぐい知能の人たちとも話はもちろん合わない。
このような中間的な知能を持っている人は案外少ないんじゃないかと僕は思っていて、だから話の合う友人も探しづらい。
中間というのはどちらにも当てはまる、というように思われがちだが、その実、どちらにも該当していないのである。
これが真実。
音楽を聴きながら
中学以来のブログを書くことにした。
中学のころは訳も分からず、自分の中で処理しきれない気持ちをただ文字にする置き場所にしていたのだが、今もすることは変わらない。僕の中で処理しきれない何かを目に見える形にする。その過程をここに載せる。
それだけ。
中学のころはFC2ブログを使って、何かを意欲的に書いていた。一週間に1つとか2つとか、それくらいの頻度で記事をあげていたが、今になって考えると、それはすごいことだと思う。
毎日いろんな考えは湧くが、もはや自分に興味がないので、すぐに忘れ去ってしまう。
平穏無事な未来を望んでいるが、現在になにを望んでいるのかわからない。日々、ただ漠然と盛り上がってくる不安を煙草でこまめに消しながら、煙草による体調不良と戦っている。
煙草をやめると誰かに言ったが、その人はそんなことさして気にしていない。別にやめなくてもいいよとも言っていたと思う。
所詮人間が他人を気にするのは、ただそのようなフリをすることで自分の社会性を示しているに過ぎない。トイレで手を洗うのに似ている。
でも、そんな社会性の顕示さえもしてくれなかった彼女は、何なのだろう。本当に僕に何の興味もないんだろうか。
最近、煙草を喫みながら踊ることにハマっている。ツイストダンスが一番いい;うるさくないからね(マンションの下の階のやつがクレーマーなのだ)。
そうして脳みそに酸素がいかないうちは、不安が立ち上ってきたりはしないからいい。脳みそに必要なのは、砂糖と酸素。2Sだ。
僕は砂糖を欠かすことができない。これもまた気持ちがいいから。虫歯になるのは嫌だから歯磨きはするが、甘味を欠かすことは考えられない。そしてこれを欠かないのならば、酸素を削るしか脳に対抗する手段はない。
いろいろと考えすぎて死にたくなったら、煙草を肺に入れながら踊ればよいのだ。そうすれば一時的にではあるが、考える(考えさせられる)ことから逃げることができる。かてきょ先の生徒にもぜひ教えてあげたい。
僕はよく「この煙草一本に勝る幸せがあれば、いつだって禁煙できる」と嘯(うそぶ)いているけど、こんなものは端的にいって虚飾にすぎない。
僕にとって幸せ、それは不幸からすこし気分が持ち直したときに現れる副産物にすぎない(こんな厭世的なことを書いていると気持ちが暗くなるけど、でもこれって現実じゃん)。
だから、煙草は幸せの使者だと僕は思っている。煙草を喫まないと気分が落ち込むが、喫むことで気分が上向きになる。その時に幸せが垣間見える。
美しい構造だと思わない??
僕が煙草を吸わなかったらどうなるか。気分が低空飛行を続けるだけだ。僕のネクラは治らない。
でも、煙草を吸うことで、飛行機は上昇を遂げる。美しい飛翔だ。そして墜ちる。これまた美しい墜落。
そして墜落している途中に煙草を入れてさえあげれば、僕の飛行機はまた空を切り裂く上昇を遂げるのだ。
僕は、煙草のおかげで雲の上を知ることができる。これは、生まれながらに雲の上を飛んでいる人にはわからないだろう。ずっと雲の上を飛んでいるやつは、低空飛空を続ける奴らの気持ちなんてわからない。
そうだろ?わかる訳ねえじゃん。
だから僕は煙草をやめられない。
たとえ恋愛をしたところで、僕の飛ぶ高度は変わらない。
会えたら昇り、別れたら下るだけ。僕は一生不安というおもりをぶら下げていなければない人間だから、ずっと高く飛び続けることなんて無理なのだ。
悲しいことばっかり書いてしまったけど、でもほんとに現実は悲しい。
最近恐ろしい事件が多いけど、その理由なんてわかりきっている。
みんな、墜落して爆発するときは、砂漠に降りよう。それが社会にとって一番いいし、もしかしたら星の王子さまにだって会えるかもしれない。
コロナ禍で起こっている現象は、別にビル群に落っこちてテロをする奴の割合が増えたわけではない。落っこちるやつの数自体が増えているから、おのずとビル群に落っこちるやつの数が増えているだけなのだ。
僕はなんとか低空飛空で保っている。
エマージェンシー装置は円滑に動いている。
でも、
いつ墜ちるかなんてわかんないじゃん。
ちなみに、僕のエマージェンシー装置の一つは音楽。
音楽を聴くことでも脳みそを支配することができる。
墜ちていることを実感するときは、音楽を聴くようにしている。そうするとおのずと高度を復帰していることが多いから。
ちなみに、音楽を聴きながら、煙草を喫みながら、踊るのは本当に一番よく効く。そのまま身体だけベッドに落とせば、気づくと高度がいつもの低空飛行に戻っている。
やっぱ煙草やめらんねえな。
鷹賀正作 2022/1/28/4時ごろ
最近僕の耳に入っている音楽