カーテンの揺れる部屋で

まだ墜ちてない?

上の境界知能

自分は頭がいいのか頭が悪いのかよく考えている。

 

もちろん、社会的に見たら頭はいい方だ。IQでいうところの上位5%には入っている。

 

でも、だからといって頭がいいわけではない。というか、客観的な頭のよさと主観的な頭のよさは全く別の話なのである。当たり前のことだが。

 

そういう当たり前のことがわかっていない人からは、「君は頭が良くていいね」と言われる。

 

この発言には問題点が二つあって、一つは今言った客観的・主観的な頭のよさの齟齬。そして二つ目は、頭がいいからといっていいことは別にないということ。

 

「いい」というのは非じょーーーーーーーーーうに抽象的な言葉であるから、「いい」のエキスを抽出してみると「幸せ」に還元できるのではないだろうか。

 

そして、「幸せ」というのは前の記事でも書いたように、相対的に気分が向上するときに感じるものであるから、一瞬的なものであり、「頭がいい」という恒久的な原因と「幸せ」という一時的な結果が結びつくわけがない。

 

もちろん、幸せを測る基礎となるところの「気分」は、だいたい一定しているから、気分と頭のいいことを相関させることは可能であろう。

 

(「気分」は、前回書いたところの、飛行機が常に飛んでいる高度のことである。生まれながらに高い人もいれば、僕のように、ずっと低空飛行を続けている人もいる)

 

では、頭がいいと気分がいいかというと、そうではない。むしろ逆である。

 

頭がいいほど気分は悪い。なぜなら、頭がよければよいほど、見える物事が多くなり、その分考えることも増え、不安要素も増えるからである。

 

「人生について考えること = 不安になること」と考えてもらって差し支えないであろう。

 

頭がいい人は、悪い人より人生について考えることが多く、不安になることが多い。だから気分がいいわけでなく、むしろ気分は悪化するばかりなのである。

 

だいぶ単純化してお話したつもりだが、おわかりいただけただろうか。

 

バカはカシコをうらやむが、カシコはバカをうらやむのである。悲しい話。

 

だいぶ話が脱線したが、僕は客観的に頭がいいけれど、主観的には自分を頭がいいと思っていない、という話だった。

 

これがなぜか、今まであまりはっきりしていなかった。

 

せいぜい、頭がいい組織に所属しているから、自分の知能が低く感じられるのだろうとくらいにしか思っていなかったのである。

 

しかし、今日偶然思いついたのは、僕が、頭がいい人達の中での「境界知能」に属しているのではないかということである。

 

「境界知能」というのはご存じの通り、知的障害には該当しないが、一般的な知能よりも低いところの知能のことであり、最近注目されている。

 

僕の場合、早稲田・慶応レベルよりは上の知能を持っているが、東大よりは下の知能を持っているという意味で、境界知能にあたると思う。

 

よく思えば、早稲田の人たちとは話が合わないし、だからといって東大のえぐい知能の人たちとも話はもちろん合わない。

 

このような中間的な知能を持っている人は案外少ないんじゃないかと僕は思っていて、だから話の合う友人も探しづらい。

 

中間というのはどちらにも当てはまる、というように思われがちだが、その実、どちらにも該当していないのである。

 

これが真実。